写真家が考える写真の勉強。構図や技術の先にあったものとは。

 書店に行くと「写真の上達方法」をテーマにした本がたくさんあって、私も読んでみたりするのですが、それらに書いてあることに、どうも違和感を感じますので、自分なりの経験を書いてみようと思います。
 趣味で撮影をされている方は、「本に載っているようなきれいな写真を撮りたい。」と思われることが多いと思いますから、そのような方にとって、この文章は、あまり役に立たないかもしれません。写真家になることを考えている人や写真家って何を考えているんだろうと興味のある方の参考になればいいなあと思います。

写真が上達する段階と勉強する内容

カメラや機材の操作を覚える段階

 写真を始めたばかりの頃は、カメラ雑誌や写真集を見ることは重要です。私も高校生の頃はよく見てました。今でも、この頃に雑誌や写真集で見た内容は、よく覚えていて、その後に、大きな影響を与えています。例えば、奈良原一高さんが雑誌のインタビューで答えていたシャッターの押し方は、今でもそのまま実践しています。それは、指全体でシャッター押すのではなく、あらかじめ指の腹でシャッターが切れる寸前まで押しこんでおいてからシャッターを切るというものです。実際にシャッターを切っているときは、外から見ると指が動いているかどうかわからない動きになって、ブレをかなり抑えることができます。

構図など「絵」にする技術を覚える段階

 誰かの写真を見たり、写真の本を読んだりする勉強が役に立つのは、この段階の途中までです。勉強したことを実践し、数をこなすうちにどんどん上手くなっていって楽しい時期でもあります。ただ、これは私の経験ですが、頭で考えて撮った写真は、決定的な1枚にはなりません。ファインダーで構図を考える時間が長くなればなるほど、自分が感じた空気や緊張感のようなものがどんどん逃げてしまうのです。私が撮影中に構図を考えるのは、あらかじめ紙面のレイアウトが決まっている時か、被写体の魅力が中途半端で、どうしたらかっこよくなるのか、考えなければいけないと時だけです。普段の撮影では、カメラを構えると勝手に構図が決まります。同じような構図で何枚か撮影することもありますが、構図だけを考えると、だいたい、一番初めに撮ったカットが、一番いいカットです。雑誌などでは、「画面を何分割かして構図を考える」みたいな記事をよく見かけますが、あのような思考では、考えているうちにシャッターチャンスを逃してしまいます。歩く時に、いちいち体のバランスなんか考えて歩いていないのと同じで、ファインダーの中のバランスも自然にまとまるようにしておかなければ、目の前の現実についてゆくことが出来ないのです。画面構成ついて一番の勉強方法は、意外かもしれませんが、絵を描くことです。デッサンと言ってもいいかもしれません。画面の中のバランスをとるには、どうすればいいのか。奥行きや立体感を表現するには、どうすればいいのか。光はどこからきているのか。それらは、描くことによって、より具体的に把握出来ますし、何より「眼」がそういう眼になってゆきます。

伝えたい内容を、写真にする段階

 技術を覚えると多くの人は壁に突き当たります。覚えた技術で、何を伝えればいいのかわからなくなるのです。目的を考えずに手段だけを考えてきた結果です。私にも同様の経験があります。「自分は、何を撮ればいいんだろう?」なんて悩む訳です。この段階まで来ると写真の勉強は、役に立ちません。そもそも「伝えたいこと」を見つけるのは、写真を撮る行動とは全く関係ないことが多く、写真以外の経験や知識が必要になるからです。もし、ここで人とは違う写真、今まで見たことのないような写真を撮りたいと思ったのならば、他の人と違う考え方や行動をする必要が出てきます。場合によっては、人生をかけなければ撮れない被写体も出てきますから、生き方自体も問われます。技術は、本を読んで実践すれば、身につきますが、伝えるべき内容は誰も教えてくれません。私も後で気がつきましたが、技術なんて、それほど重要ではないんです。でも、ここまで来ないとそれが理解できないのです。

写真の独自性を高めるために

 情報や交通が発達して、日本国内は、どこでも同じような風景になってしまいました。今では、インターネットのおかげで世界さえもどんどん均質化していっているようです。まして、みんなが写真を撮る状況ですから「みんなと同じ写真」では、全く目立たない存在となってしまいます。そんな中で、私の写真は、海外でも展示されています。なぜかと考えると、若い時に写真の勉強をしなかったからじゃないかと思い当たります。
 私が高校生の頃、写真は興味のあることのひとつに過ぎませんでした。奈良原一高さんやユージン・スミスの写真を「すっげー!」と思っていた時には、シド・ミードやメビウス、ノーマン・ロックウェル、ジョー・ジョンストン、アルフォンス・ミュシャといった人たちのイラストやデザイン、絵画にも同じように「すっげー!」と思っていました。これらに興味を持っていたので、直接写真の道に進まず、遠回りしたんですが、それが今になって役に立っているような気がするのです。
 こんなことを考えていますから、今でも、写真集やカメラ雑誌を見るのは、必要最低限にしています。人間は、コンピューターとは違いますが、それでも、入力が一緒になってしまうと出力も一緒になってしまうと思うからです。世の中の流れに乗るような写真を目指しているのであれば、今の写真の流行を知り、そのエッセンスやテクニックを取り入れるのは大切です。でも、私は、自分が死んでも残る写真を撮りたいと思っていますから、「みんなと同じ」になってしまう危険は避けなければいけません。
 写真の勉強を否定しているのではありません。機材に関する勉強は、必要です。写真を仕事にするならば、東京の写真関係の学校に行くことも、人脈を得る上で有効だと思います。でも、独自性を持ちたいと考えるのであれば、写真以外のことがはるかに重要なのです。

最後に

 撮影は、手段であって目的ではありません。写真ばかりを勉強していても、いい写真が撮れる訳ではありません。日本では、手段が目的となってしまうことが多いため、私自身、「撮影は手段であって目的ではない」と気がつくのにずいぶん時間が掛かってしまいました。また、写真以外のことに興味があって遠回りしたことも、不利だと考えていた時期もありました。
 人生は、何かに気がつくかどうかで、ずいぶんと違ったものになると思いますので、この文章が、過去の自分と同じように悩んでいる人の役に立てばいいなあと思っています。

 以上、写真家 西澤丞の悪戦苦闘でした!