ドブに捨てるべき五つの常識。未来を手に入れたければ、考え方を変えろ。

はじめに

 自分の写真を変えたいと思ったら、まずは、考え方を変えなければいけない。考え方を変えることによって視点や行動が変わり、結果として出来上がってくる写真が変わる。だから、写真家は常に考えるし、考えること自体が撮影の一部なのだ。私自身もいろいろなことを考える。考えることによって危機感が芽生え、それが撮影の動機にもなっている。例えば、この国のプレゼンテーション能力やブランド力の向上には、写真の力を知ってもらうことが有効だと思っているので、現場のかっこいい写真を撮って発表している。写真家のブログなんで、写真に関することから書き始めたが、考え方を変えることで結果が変わるのは、どんな仕事でも同じだ。それに、未来を変えようと思ったら考え方を変えるしかないとも思っている。今は、世の中の価値観が激しく変わっているので、自発的に考え方を変えるだけではなく、外的な要因によって考え方をどんどんアップデートする必要性に迫られている。以下に、私が疑問に思っていることや変えなければいけないと思っている考え方を挙げてみる。

技術は、そんなに重要なのか?

 「日本の技術は世界一」というフレーズを聞く機会は非常に多い。実際、スパコンの富嶽などを始め、技術的に優れた分野もあると思う。ただ、目的を達成する手段に過ぎない技術が取り上げられる一方で、目的を見つけることや企画の重要性ついて語られることは、ほとんどない。これは、非常に危険だ。もし、日本が、目的の設定や企画について真剣に向き合わなければ、仕事を発注する立場になることはできず、部品を作るだけの下請け国家になってしまうからだ。下請け国家になってしまえば、価格決定権はなく、他の賃金の安い国との値段競争に巻き込まれてしまう。すでに、技術的には製作可能なものであっても、最終的な製品を販売する立場に立てず、下請けとしての部品供給に甘んじている分野はたくさんある。また、部品供給する時の価格競争に勝てずに撤退している分野だってある。もちろん、これは、技術が不要だという話ではない。目的の設定があって初めて技術が活きるということだ。
 それから、一時期、これからの日本は高付加価値の商品を作らなければいけないと盛んに言われていたが、高付加価値の商品は作れたのだろうか?高付加価値を、多機能だとか高品質だと勘違いしていたんじゃないのか?高付加価値とは、同じ内容の商品でも高価格で売れることであり、それは、言い方を変えればブランドなんだけど、高付加価値の商品を作るということが、ブランド構築だと意識していた人がどれくらいいたのか。また、ブランドとは、ヒストリー(実績)、スピリット(志)、ビジュアル(表現)の三要素が相互に作用した結果として成立するものなので、その視点から見ると、技術はそれを下支えする要素でしかない。技術にこだわるあまり、他をおろそかにしていては意味がないのだ。まして、実際に手を動かす大量生産のものづくり以外に、システムやプラットフォーム、ルールの構築、知財などに関わる産業の存在感が大きくなっているので、目的の設定や企画について、今まで以上に真剣に取り組まなければ、この国の未来はない。

薄利多売が、商売をする上での最善なのか?

 他社よりも安く提供することで販売数を増やし利益を上げるやり方は、商売をする上でのひとつの方法であり、それ自体を否定するつもりはない。一方で、きちんとした仕事にはきちんとした対価を払うという考え方も成立するはずだ。ただ、どういうわけか、この国では、安く作ることや安く売ることだけに注目し、もう何十年も価格競争というチキンレースをやり続けている。結果として、他の国では上がり続けている国民の所得が、この国では下がり続けている。
 目先の利益を確保しようと思えば、非正規社員を雇って人件費を減らし、すぐに利益につながらない研究開発を縮小すればいい。簡単だ。頭を使う必要なんてない。しかし、従業員にしかるべき給料を払っていないんだから、商品を買う人は減るし、給料が少なくて結婚できなければ、少子化が進んで人口が減り、ますます商品が売れなくなる。研究開発をサボれば、競争力がなくなるので海外に商品が売れず、逆に輸入が増えてしまう。外貨を獲得できなければ、エネルギーや資源、食料の確保さえままならなくなる。目先の利益を確保するためにやっていたことが、長期的な視点では自分自身の首を絞めることになっている。「今だけ、金だけ、自分だけ。」の発想は、まさに悪循環の元凶だ。短期的な視点でしか発想できなくなっている原因は、2〜3年で異動する人事が原因の一つだと考えている。2〜3年の間だけ数字を上げれば、評価されるし、その間、何事もなくやり過ごしても評価される。これじゃ誰も長期的なことなんて考えなくなってしまう。
 今の状況を海外から見れば、日本だけが川下に流されている状態なんだけど、国内では、みんなが同じスピードで一緒に流されているので、流されていることを実感しなくて済む。だから問題意識を持つこともなく、ずっと同じことを繰り返している。自分は、2018年にニューヨークに行った時に、宿泊費が東京の2〜3倍になっていて愕然とした。そろそろ、このチキンレースをやめないと本当に後進国になってしまう。

先輩、後輩、敬老。年の差って、そんなに重要?

 この国では、どういうわけか年長者に対する敬意を強要されることが多い。識字率が低く、平均寿命が30年くらいだった時代なら、過去の出来事を知っていて経験豊富な老人は、生きているだけで尊敬の対象だっただろう。それは、理解できる。ただ、過去に例のない災害がいくつも起こり、ネットをはじめとした技術的な進歩が著しい状況では、今までの経験は役に立たない。つまり単に長く生きているだけでは、尊敬の対象とはなり得ないのだ。もし、年長者が、この状況を把握しないまま、時代錯誤の常識や方法論を若い世代に押し付けるようなことがあれば、それは、尊敬の対象ではなく害悪でしかない。過去の経験が役に立たない状況で、尊敬される人物かどうかの判断基準は、その人が、今、何をしているかであり、今まで、どんな生き方をしてきたかだ。それは、個人の活動や資質に関する話であって、年齢の上下は、関係ない。
 また、年長者に対する敬意は、未来よりも過去を重視し、状況を分析するよりも経験に基づく判断を好む傾向としても現れていたが、それも変えてゆかなければいけない。過去にとらわれていたのでは、新しい状況には対応出来ないばかりか、間違った未来を選択するリスクの方が高くなってしまうからだ。これからは、年齢に関係なく、新しい状況に対応できる能力を持った人が活躍するべきだし、踏み出す一歩一歩が、未来につながっていると認識出来るだけの想像力が、何よりも必要だ。

みんなと同じ、そんな人生が成立するのか?

 みんなと同じじゃないと不安とか、ちょっとでも違うところのある人を排除するみたいな考えは、いつの間にか刷り込まれているように感じるが、いつまでそれを続けるのだろう?みんなと同じであることを求める教育は、大量生産大量消費の時代には都合の良い労働力を提供する教育として、適した方針だったと思うし、みんなと同じが正しいとしておけば、為政者としては管理しやすかったんだと思う。でも、みんなと同じ能力で出来る仕事なんて、誰でも出来るってことだから、どんどん人件費の安い国に流れてゆくし、AIに取って代わられる可能性も高く、これからの時代、そんなものに価値はない。同じように記憶力=学力であるかのような考えも役に立たない。記憶が役に立つのは、前例があることに限定されるからだ。また、就職するときでも寄らば大樹の陰といった言葉の通りに、ほとんどの人が大企業に就職することを目指す。もちろん大企業に入らなければ実現できない夢もあると思う。しかし、30年前であれば、絶対に安心と思われていたような企業でもリストラや事業の売却が進んでいるし、すでに終身雇用が確保されている時代ではないので、大企業に就職すること自体を目的とすることや就職すること=会社に雇ってもらうことだという考え方は、ずれているんだと思う。
 みんなと同じであることへの執着は、別の視点から見れば、自分で物事を考え判断することを放棄していることでもある。つまり、みんなと同じ人生を目指すというのは、自分の人生を誰かに委ねることでもあるのだけれど、そこまで認識できているのだろうか?フリーランスを目指すと博打みたいな人生だと言われることがあるけれど、挫折することを覚悟して若いうちから自己研鑽を積んで年齢を重ねてゆくのと企業に就職して言われるままに仕事をし、40代や50代になってリストラに怯えるのと、どちらがハイリスクなのか。今でもわからないし、これから先はますますわからなくなってゆく。
 みんなと同じが安心、いい学校に入学すれば安心、大企業に就職すれば安心みたいな価値観は、すでに過去のものであり、これから重要になるのは、自分で問題を見つけ解決する能力であり、常に勉強し続ける姿勢であることは間違いない。

批判だけで終わっていいのか?

 問題提起や批判は、意見の表明として重要であることに疑いの余地がない。しかし、批判すること自体が存在意義となっている人や団体には、非常に違和感を感じる。対案や実際の行動を伴わない問題提起や批判は、誰でも出来ることなので、それだけでは、ともすれば足の引っ張り合いになってしまうからだ。特に相手を全否定するような意見については、相手への根拠のない過小評価につながって失敗した歴史を想起させるので、強い危機感を持つ。また、相手を否定することは、相手からも否定されることなので、否定するだけでは何も解決しないと認識する必要がある。
 今の状況は、子どもの頃から議論や交渉の経験をほとんどしないまま大人になったことが原因だと思うので、どこかで経験する機会を設けない限り改善しないように思う。私は、交渉する機会が多い方だと思うので、交渉について書いておくと、交渉に臨む際には、肉を切らせて骨を断つという言葉のように、絶対譲れない線をあらかじめ設定しておくことが肝要だ。また、一人勝ちみたいな結果は、禍根を残すこともあるので、お互いに譲歩しつつ、ちょっとだけ有利に終わるっていうのが一番良い結果だと思っている。

最後に

 自分の頭で物事を考え始めると周囲の人と違う考えになるので、否定されることも多いし、脅すようなことを言う人も出てくる。でも、人生の責任を取るのは自分自身であって、他人じゃない。それに自分を誤魔化して後悔することだけは避けたいと思っているので、思いついたことはやってみる主義だ。自分に嘘をつくなんて、そもそも出来ないけどね。

 以上、写真家西澤丞の悪戦苦闘でした!