写真家の個性は、人生の回り道にあり。

写真家の個性を説明するための画像
人生の方向性が定まってから撮影した写真です。2006年から2021年にかけて撮影した写真を並べてみました。

はじめに

今回の文章は、創造的な仕事をしたいと考えている高校生から大学生くらいの方を対象に書いてみました。きっかけは、近々アニメ化されるという漫画「ブルーピリオド」(第1巻だけ)を読んだことと、アニメ化される際の主題歌となっているYOASOBIの「群青」を聞いたことです。「ブルーピリオド」は、勉強や人付き合いに対して、ゲームの得点を稼ぐような感覚で向き合っている高校生が、美術と出会ったことで生きていることを実感し、自分の気持ちに正直に生きる道を選択してゆくというお話です。しかし、実際の世の中では、人生のレールを外れることに対する恐怖感が昔よりも強くなっているようですし、回り道のような無駄なことはしたくないという意識も強くなっているようですので、危機感を持っています。AIが一般化してゆく現実と向き合えば、人と同じであることの価値がなくなり、人と違うことに価値が移ってくるのは間違いありません。そして、人と違う考え方をするためには、人と違う経験をすることが何より重要だからです。写真の世界では、すでに機材の進歩により、誰でも写真を撮れる時代に入っていて、技術的なことで差別化するのは簡単ではありません。また、レタッチなどで個性を出そうとしても、それはすぐに真似されてしまいます。しかし、経験に基づくものの考え方や視点は、簡単に真似できませんので、写真家であっても人と違った経験をすることは、写真家としての個性を出す上でも、差別化をする上でも、非常に重要です。

子どもの時から自分のやるべきことが決まっている人もいれば、自分のように色々なことを経験する過程で、少しずつ定まってくる人もいます。この文章は、一写真家が個性を確立するまでの個人的な経験を書いていますが、人生には色々なパターンがあるんだと知ってもらえれば、いいかなと思っています。

落書きばっかりしていた高校生

写真家が高校生の時に描いていた絵。

私は、美術くらいしか得意なことがありませんでしたので、高校生の頃も、漫画家さんやイラストレーターさんに影響を受けた落書きをいっぱい描いていました。そして、高校2年生の時に漠然と美術関係の仕事をしたいと考えるようになります。ただ、400人くらいの同級生の中で美術系への進学を希望したのは自分だけでしたので、授業が終わってからの補習の時間では、みんなが勉強しているのを横目で見ながら一人でデッサンをしていました。普通は、そこでさみしくなったり、不安になったりするのでしょうが、人と同じことをするのが大嫌いでしたので、そのような気持ちにはなりませんでした。この辺は、「ブルーピリオド」の主人公と違う感じでしょうか。写真については、興味があるもののひとつでしかありませんでした。

上に掲載した絵は、高校生当時のスケッチブックに描いてあったものです。スケッチブックと書きましたが、正確にはクロッキー帳と呼ばれるもので、人物などを素早く描写(クロッキー)する際に使うノートです。スケッチブックに比べるとかなり薄い紙が使われています。私は、思いついたことは何でも、このマルマン社製のクロッキー帳に書いていて、今に至るまでずっと使い続けています。アイディアって、思いついた時に書いておかないと忘れてしまいますので、どんどん書き留めておいて、後でまとめるような使い方をしています。現在は、55冊目です。

写真家のアイディアノート。

話が逸れてしまいましたが、高校生の時、職業に関して考えていたことは、ただひとつ。「自分の得意なことで、世の中の役に立つことをしたい。」これだけ。職業としては、イラストやデザインの仕事をしたいなと思っていたものの、まだ漠然としていました。写真については、さらに遠い世界のことのように感じていました。

大学受験で挫折

写真家が大学生の時に撮った写真
この当時、よく使っていたフィルムは、コダックのTRI-X。フジのフィルムは、ぬるっとした感じでなんだか好きになれませんでした。

私の場合、経済的な理由で、大学の選択肢は「地方の国公立の学校」に限られていましたので、地方の美術系の大学と県内の教育大学を受けました。しかし、本命の美術系の学校は受からず、教育大学の美術科に進学します。人生最初の挫折です。ええ、行きましたよ。教育実習。先生になるつもりは全くなかったのですが、ここで教育について考える機会がありましたので、今でも教育について考えることは多く、この文章も、この時の経験がなかったら書いていないと思います。

学校については、東京の美術系の学校に行っていたらどんな感じだったのかなと思うことはあります。ただ、条件が悪かったからこそ、今ある条件を最大限に活かすためにはどうすればいいのか考える習慣がついたとも言えますので、結果的には良かったのかもしれません。条件が悪いことを悲観したり、誰かをうらやんだりしても、問題が解決するわけではありません。今、出来ることに全力で取り組む方が有益だと思います。

大学生だった頃に描いたスケッチです。
スケッチを基に立体化した作品です。銅板を曲げるのが難しくて、途中で根性が尽きてます。
写真家が大学生の時に撮影した写真。
この写真は、コダックのテクニカルパンって言う低感度、微粒子のフィルムで撮った記憶があります。現像時間が長くなってしまって、ハイライトが飛び気味ですね(涙)

デザインで就職したものの、デザインを諦めて写真に転向したサラリーマン時代

コダクロームフィルムで撮影した写真。
就職してからも、休日にはカメラを持ってうろうろするのですが、世の中の上っ面だけしか撮れていないような気がして、もやもやしていました。
コダクロームフィルムで撮影した写真。
この写真は、おそらくコダクローム200で撮っていると思います。コダクローム64は微粒子なのですが、200は、いい感じに粒子が荒れるので好んで使っていました。

学校を卒業して最初に就職したのは、自動車を作っている会社のデザイン部門です。学校の課題として製作した立体造形物や絵などは、全部写真に撮ってありましたので、それらをまとめてポートフォリオとして提出したところ、採用してもらえたわけです。ただ、当時は景気が良く、車の生産が注文に追いつかない状況でしたので、生産を間に合わせるためにデザイン部門でも40歳を越えた係長でさえ生産ライン(夜勤あり)に応援として駆り出されていました。そんな様子を見て、会社に人生を左右されることについて不安を感じるようになります。当時の生産現場は2交代制で、2000人の同期が30歳になる頃には2〜3人になってしまうというハードな現場でしたから、年をとってから生産現場に配置転換されたら、目も当てられないと思ったわけです。そこで、手に職をつける仕事の方がいいんじゃないかと思うのと同時に、好きな写真に挑戦してみようと思ったわけです。休日に撮れる程度の写真では満足出来なかったという理由もあります。私には、写真の学校に入り直すという発想はありませんでしたので、広告撮影を専門としている会社に転職し、写真の基本的なことは、そこで覚えました。1990年代の前半は、フィルム全盛の時代で、カラーだけではなく、新聞原稿用として白黒フィルムで撮影して現像や焼付も行なっていました。しかし、1996年頃になると、会社が400万画素程度の業務用デジタルカメラを導入しましたので、アナログとデジタルの両方を使って業務をこなすようになりました。今では、デジタルカメラが一般的ですし、インターネットもありますから、写真の技術なんて独学でも2〜3年で覚えられると思います。今からしてみれば、技術を覚えるために使ったこの時間が非常にもったいないのですが、時代が時代なので、仕方ないですね。また、この時期にサラリーマンとして一部上場企業も零細企業も経験しましたので、自分がサラリーマンに向いていないことだけは、はっきりしました。

写真家が個性について悩んでいる時に撮影した写真
フィルムで撮影したものをスキャンして、フォトショップでデザインしました。この頃から配管とかが大好きで、地下鉄の連絡通路で撮っています。1996年の写真です。
フィルムで撮影した人物写真を、加工しています。背景はイラストレーターで作成したものをフォトショップで加工し、影はフォトショップで描いています。1998年の作品です。
フィルムで撮影した素材を合成しています。当時のデジタルカメラは、400万画素程度でダイナミックレンジも狭かったので、フィルムで撮って加工した方が、仕上がりが良かったのです。1999年の作品です。

さて、私が撮影専門の会社にいた頃、世の中では、1994年に25万画素(!)のセンサーを装備したデジタルカメラ、カシオQV-10が発売され、撮った写真をその場で確認できる時代が到来していました。フォトショップは、レイヤー機能が搭載されたVer.3になっていたと記憶しています。また、1999年頃になると3DCGソフトが一般の人でも購入できる程度の値段になっていました。私は同じことをやっていると飽きてきてしまう性分なので、バック紙にモデルさんを立たせて撮影するという昔ながらの撮影スタイルをなんとか変えたいと思って、新しく出てきたそれらの技術を積極的に取り入れていました。そして新しい技術を取り入れた作品が、雑誌に掲載してもらえるようになってくると、会社でやらせてもらっている仕事よりも、もっと上のレベルの仕事をしたいという欲が出てきます。また、当時はインターネットが普及していなかったため、地域格差が大きく、全国に展開するような大きな仕事をするためには東京に行くしかないと思い始めます。一方で、自分の得意なことで世の中に役に立つという目標に関しては、全然達成出来ていませんでしたので、悩みは沢山ありました。30歳頃の話です。

独立してからも試行錯誤が続く

3DCGとフォトショップで作りました。デッサン力や人体への理解の無さが露呈しています。ただ、最近、こんな駆動方式のバイクのイラストを見ることがありますので、その点だけは自己満足です。
2点とも2002年の製作で、Shadeという3DCGソフトを使っています。値段は比較的安いソフトでしたが、操作方法が独特で、覚えるのに時間がかかった記憶があります。

2000年に独立し、東京で営業を始めるのですが、フリーになったばかりの頃は、撮影と同じくらいか、それ以上に、フォトショップで写真を合成したり、3DCGでイラストを作る仕事をしていました。当時は、不景気でしたが、それらのソフトを使いこなせる人が少なかったものですから、個人で営業に行っても割とすぐに依頼してもらうことが出来たのです。写真だけではなく、その周囲にある技術を積極的に取り入れていたことで救われていました。ただ、仕事を自由に選べるはずのフリーランスになっても、世の中の役に立つという点では、納得のゆく仕事に巡り合うことがなく、悶々とした日々を過ごしていました。技術があっても、やるべきことが見つからない、人生で一番つらい時期でした。技術よりも目的を重視する考えは、この時の体験から来ていると思います。この国では多くの人が勘違いしていますが、重要なのは、まず目的であって、技術は、それを達成するための手段にすぎないのです。目的があって、初めて技術が活きるのです。

写真家としての個性や方向性が決まるきっかけとなった写真-1
国土交通省の現場見学会「東京ジオサイトプロジェクト」を広報するために撮影しました。東京の地下で人知れずインフラの整備が行われていたことに衝撃を受けました。

写真家としての個性や方向性が決まるきっかけとなった写真-2
日比谷共同溝を掘削するシールドマシンの組立作業です。人々が行き交う場所のすぐそばに、SFのような世界が広がっていたことにも驚きました。

ようやく写真家としての個性が確立

転機となったのは、2004年に依頼された工事現場の撮影です。工事現場には、子どもの頃から興味がありましたので、営業に回った先で「工事現場の撮影があったらやらせてください!」と言い続けていたら、受注できた仕事です。そして、この現場を見た時に、自分の想像力の限界を思い知らされました。私程度の想像力では、フォトショップや3DCGを使っても、現実にあるものの迫力には、絶対勝てないと悟ったのです。人生で3回目の挫折です。この時以来、仕事の半分くらいを無くす覚悟で、写真を加工したり、3DCGを使った仕事は、やめました。ドキュメンタリー写真が、加工されたものだと誤解される状況だけは避けたいと思ったからです。こんな決断ができたのは、フォトショップも3DCGも、ある程度のところまで突き詰めて使っていたからです。中途半端に使っていたら、想像力の限界に気がつくこともなく、写真が持っている力や社会との関わりがどれほど重要なのかに気がつくこともなく、ダラダラと仕事をしていたと思います。

また、この現場と出会ったことで、立入禁止の扉の向こう側に魅力的な被写体があることや、写真を撮って伝えることで解決出来そうな問題があることを知りました。仕事の一部を諦めざるを得ませんでしたが、高校生の時から思い描いていた、「自分の得意なことで、世の中の役に立つことをしたい。」という道筋は、はっきりと見えてきました。そして、この後に撮影した写真が、海外の雑誌に掲載されたり、写真集を出版出来たことで、「大勢いるカメラマンの一人」から「写真家西澤丞」に移行してゆきます。

結局、自分のやるべきことを見つけるまでに、20年くらいかかってしまいましたので、いくらなんでも時間がかかり過ぎです(笑)ただ、これらの回り道がなければ、写真家西澤丞は存在していませんので、必要な時間だったんだと思います。今なら、ネット上に情報があふれていますので、もっと短い時間で到達できるでしょう。ただ、情報が多すぎて、オリジナリティーを求める時には、障害になるのかもしれません。よほど気をつけていないと均質化から逃れられないからです。いつの時代であってもクリエイターとして個性を出し、差別化を図るには、何かしらのコストが必要なんだと思います。

終わりに

コンセプトが確立する以前の制作物を掲載することは、写真家のブランディングとしてはマイナスですし、私自身は、過去を振り返ることに興味がありません。しかし、次世代の人たちに多様な人生があることを理解してもらうためには、実例を示す必要があると思い、昔のものを引っ張り出してきました。

私は、自分のやるべきことを理解していますが、今でも自分が立つべき場所に到達しているわけではありません。社会の状況も想像を超えて変化していますので、50歳を過ぎても、時代の流れに対応して仕事の内容を微調整する必要に迫られています。目指す方向を変える必要がなくても、そこに至る道筋を変えなければいけないことはあるのです。人生において何が正解なのか、誰にもわかりません。ただ、後悔しない人生を送るためには、常に前に進むための行動が重要だと思っています。それが、回り道だったとしても。

以上、写真家西澤丞の悪戦苦闘でした!