「タイパ」や「コスパ」の行き着く先を考えてみた。
はじめに
昔から費用対効果という考え方はあったし、お値打ちっていう言葉でも表現されていた。まあ、損得の話だ。その損得の話が、最近では、人間関係や人生の根幹にあたる部分にまで使われるようになったみたいで、非常に違和感を感じている。この違和感の正体を突き止めるために、「タイパ」や「コスパ」について考えてみた。
タイパについて
タイパを求める人たちは、ネットを検索して一番少ない手数や時間で成果をあげたいと考えるのだろう。言い方を変えると、過去の延長線上で物事を考える方法だから、そこに挑戦とか冒険、試行錯誤なんて選択肢は出てこない。そういう行動には、遠回りがつきものだし、答えが出る保証もなければ、成果が上がる保証もないからだ。勉強だって、確実に成果が上がると判断できなければ、やらないのだろう。これじゃどう考えても発展なんてしないし、進歩もない。それに、過去の例に倣って思考するというのは、AIの得意技だ。AIであれば、あなたよりも多くの過去データを収集でき、あなたよりも多くの組み合わせを思いつくだろう。
過去を振り返りながら、創造も発展もなく、同じことを繰り返す日々。そして、ふと気がつくと、AIの指示に従って労働力を提供しているだけの自分がいる。タイパを求めた先の未来は、そういう未来なのだろう。
コスパについて
この言葉を使う時は、安い値段で自分の欲求を満たす商品やサービスを手に入れることを念頭に置いていると思うが、これの対極にあるのはブランドだ。ブランド品であれば、「高いけど、どうしても欲しいから買う」となるが、コスパで考えれば最悪だ。自動車を例に考えてみよう。コスパで考えれば、車は単なる移動手段なので、安全性などが担保されていれば、値段は安い方がいい。しかし、ブランドとなっている車の場合、それは単なる移動手段ではなく、何らかの付加価値を持っているわけで、その付加価値を求めて、値段が高くても買う人がいるわけだ。
では、ブランドとは、なんだろう。ブランドとは、歴史や志、映像表現などの相互作用によって形成される「イメージ」だ。具体的には、デザインの良し悪しや社会問題への取り組み、挑戦する姿勢、働いている人の笑顔などだが、これらは、いずれも数字に換算することができない。よって金額として明示できるものでもない。コスパとは別次元の話だ。もし、すでにブランドだと認識されている会社が、研究開発やクリエイティブに投資をしていないとしたら、それは過去の遺産を食い潰しているだけだ。短期的には、利益が上がっているように見えるかもしれないが、ジリ貧だ。遺産を食い潰した先に待っているのは、今まで見下していた国の人たちとの低賃金競争だけだ。あれ、ちょっと待って、こういう話は「日本の失われた30年」を語るときの話だよね。ってことは、「コスパ」を重視するってことは、日本の失われた30年が、形を変えて継続するってことじゃん。長期的視点に立った時には、得でもなんでもない。
また、中には、人と付き合うのはコスパが悪いという考えを持っている人もいるようだ。でも、人と付き合わないってことは、相手にもされないってことだよね。ネット上で「いいね」がつけば、それで満たされるってことなのか。オンラインでゲームが出来れば、それでいいのか。ごめん、この辺りは、ちょっと理解できない。
人間ってなんだっけ?
みんながカメラを手にするようになって写真家の存在意義が問われるようになったと同じように、AIが劇的に進化することで、「人間ってなんだっけ?」という疑問が湧いてくる。「タイパ」や「コスパ」を意識する裏には、自分の存在意義について考えなければいけなくなった恐怖やどんどん進んでゆく社会に遅れまいとする焦りがあるんじゃないだろうか。
でもね、存在意義なんて考えなくても生きていけるわけだし、「タイパ」や「コスパ」が似合うのは、AIのような機械であって、人間自体は、そもそも効率的でもなければ合理的でもない。「タイパ」や「コスパ」っていう次元でばかり物事を考えていると、機械に対して劣等感を覚えるようになるから、自己肯定感が低くなるし、場合によっては、人間がいらない社会を目指すことにもなりかねない。それに、あなたが憧れている人は、「タイパ」や「コスパ」を重要視する人なのか?そんなことも考えてみたらどうだろうか。
さいごに
言葉というのは、不思議なもので、誰かに何かを伝えるだけではなく、言葉を発した人自身の行動や考え方にも影響を及ぼす。「タイパ」や「コスパ」という言葉を、意味も考えずに口にしていると、知らず知らずのうちに挑戦することから遠ざかり、自分自身の可能性を閉ざしてしまう。挑戦するだけが正しいわけでもないけれど、人生の終わりごろになって、「あの時やっておけばよかった」と後悔するような人生はごめんだね。
以上、写真家西澤の悪戦苦闘でした!!