AIに負けない仕事。写真家の場合。
はじめに
生成AIを使った画像製作に驚いて、この文章を書いたのだけど、その後、写真と区別がつかないくらいに精度が上がってきたので、以前書いた文章を若干修正することにした。(修正日は、2023年11月8日)。
類型化したクリエイティブとAI
僕は、オリジナリティーとか独創性って言葉に敏感だ。自分が写真を撮る時は、誰もやっていないことに挑戦したいし、誰も撮影していないものを撮りたい。写真家って作家でありクリエイターだから、新しいものを作ったり、新しい価値観を提案するのが仕事だと思ってるからだ。
と思いつつ、周りを見渡すと、写真に限らずクリエイティブだと思われていた分野が類型化している。リメイクものが端的に表しているように、過去からの延長線上で物事が進んでいる。確かに、すでにマーケットがあり、ファンもいる市場を狙えば、少ない投資で安全に利益を得られる。商業的に考えれば、正しい選択だと思う。でも、過去のものをベースに新しいものを作るのって、どうなの?
どうして、こんなことを書き始めたかというと、AIを使った画像製作技術に驚いたからだ。ちょっと前までは、機械は人間が入力したものしか出来ないなんて言っていたのに、今では、AIの方が人間の想像を超えた自由な発想をするようになったばかりか、写真と見紛うばかりの精度まで獲得してしまった。そんなことを見聞きしたもんだから、自分の将来や写真の未来を考え始めてしまった。10年後、20年後の未来については、時々整理しておかないと人生を間違えるので、昔から気になった時に考えるようにしている。
ってことで、まずは、そもそも写真ってどんなものなのか、今一度考えてみる。
写真という表現手段の特徴と現状
写真が、絵画や彫刻などと決定的に違う点は、機械を使って作品を手に入れるという特殊性だ。映画なんかも機械で手に入れるっていう点は同じだけど、あちらは、脚本や編集があるのに対して、写真はシャッターを押しただけでも作品として成立してしまう。つまり、人が介在する余地が非常に少ないってことだ。言い換えれば、1枚の作品を手に入れるまでの労力が非常に少ないんだよね。絵なんかとは、全く違う。写真を作品って呼ぶのは、ちょっと違和感あるけど、他の仕事と比較する時には仕方なくこういう言い方をするよ。
さて、写真の特徴を把握した上で、今の写真の世界を見てみると、相変わらず機材の話題が多い。写真を撮るためには、どうしても機材が必要だから仕方ないんだけど、今の機材の性能を考えると、機材の性能差は写真の本質ではない。センサーのサイズやレンズの種類、フィルムかデジタルかなんて、撮影している本人がこだわっているだけで、写真を見ている人にとっては、どうでもいい話だ。また、「自分らしさ」とか「世界観」といった言葉を目にする機会も多いけど、そういう話をしている人は、だいたい、色調のことだったり、「〇〇みたいな写真を撮りたい」とかってことを話していて、今まであったジャンルを細分化しているだけのように見える。技術は、すぐに真似されるし、AIで可能になるのに…。これからのAIが作る写真や画像は、そんな些細な技術なんかすっ飛ばしてくるはずだ。
じゃあ、写真を仕事にする人に残された道はどこにあるのか?
写真の仕事は、これからどうなる?
写真の仕事について考える時、写真業界には、他の業界とは違う特徴がある。文章を書く仕事であれば、依頼仕事を請け負うライターさんと自主的に作品を作っている作家さんでは、明らかに仕事に対するスタンスが違っていて、本人も周りも違いを認識しているのに対して、写真の場合は、仕事を請け負っている人も作家として活動している人も、みんな「写真家」って名乗っているのが特徴だ。これは、写真の仕事について話をする時に、非常にややこしい。この文章中では、区別するために依頼仕事を中心に活動している人を写真職人、作家活動をしている人を写真家としておこう。職人さんでもクリエイティブな人もいるよって声が聞こえてきそうだけど、それは、ちょっと置いておく。話が進まないからね。
さて、こんな前提の元に、写真職人と写真家の場合で未来を考えてみる。ちなみに僕は、写真職人的な仕事からスタートして作家的な活動を始めたので、今でも両方行っている。ただ、使っている時間は、圧倒的に写真家の方だし、依頼される仕事のほとんどは、作家的な活動を見た人からの依頼なので、撮影する写真の内容は、ほとんど同じだ。
写真職人さんの場合
職人さんに残る仕事は、おそらく、被写体や場所、撮影日時が大事な場合。記録的な要素が強いものは、画像を生成するって訳にはゆかないので残る。具体的には、家族写真とか結婚式の写真を、プロに撮ってもらおうっていう需要は残ると思う。単価がどうなるかわからないけどね。危ないのは、技術の上に存在してきた分野やクリエイティブだと認識されてきた分野だろう。商品撮影などは、技術が必要とされてきた最たるものだけど、今では、普通の人でもある程度のレベルまでは撮れる環境になってきたから、生き残れるのは大企業などと仕事をしているごく一部の人だろう。今後、商業的な資金は、写真の分野にではなく、3DスキャンやCGに注がれるだろう。被写体や撮影空間がパソコンの中で完結すれば、天気の心配なんかしなくていいし、モデルのスキャンダルに巻き込まれることもないからね。今でも加工した写真に違和感を覚えなくなってきているから、画像を見て、それが写真なのかAIが作成したものか気にしなくなるなんて、時間の問題だ。商品のパッケージに描かれているのがCGなんて、もう普通だし。
写真家の場合
こちらも安全って訳じゃない。写真家が生き残る道は、社会との関わりにあると思っている。社会と関わっていれば、ありもしない画像を使うのはNGとなり、素性のしっかりした写真が必要になる。社会と関わっていない分野の写真は、被写体が実在していなくても問題ないからAIに置き換わる可能性が高いってことだ。社会と関わっていない写真家は、社会からも関わってもらえないって言い換えてもいいのかもしれない。これは、被写体の種類って話じゃない。自然や動物、人をテーマにしたものでも、それがイメージを伝える目的であれば、置き換わる可能性が高くなってくる。もうひとつの生き残る道は、写真家自身が、余人をもって代え難しってなる方法だ。これに関しては、撮影する理由やコンセプト、撮影者がそれまでに行ってきた行動や経験が、作家にふさわしいって場合だけだと思う。かなりハードルの高いものになりそうだけど、作家って、本来そういうものかもしれない。
技術の進化で見えてきた写真の本質
誰でも写真を撮れるようになったことに加え、AIによる画像生成の脅威まで生まれて来た今の状況は、写真を撮って生活をしている人にとって大変な状況だ。でも、それは、写真の本質が見えて来たからに過ぎない。写真撮影が文章を書くことなんかと同じスタートラインに立ったってことだ。書くだけ、撮るだけなら誰でも出来る。
誰でも写真を撮れる状況では、その他大勢との差別化を図るには、オリジナリティーが必要だ。でも、技術に頼ったオリジナリティーは、すぐに真似される。一方で、写真の場合、技術以外でオリジナリティーを出そうと思うと、その瞬間、めちゃくちゃハードルが上がる。写真って、現実にあるものしか写らないから撮影者自身の考え方や行動が、そのまま写真に定着される。技術を前面に出さない素直な写真であればあるほど、撮影者の思考がわかりやすい形で表に出てくる。誰かに写真を見てもらうってことは、撮影者の人生や考え方を、第三者に評価してもらうことなんだ。
じゃあ、どうすれば、いい?何もないところから、独創性なんて生まれないから、まずは、現実と向き合わないと。知識や経験が無い状態では、何も生まれない。0に0をいくつ足しても0のままだ。自分が今まで見てきたものの蓄積と、新しい経験が組み合わさって、初めて自分らしい視点が生まれる。だから、行動しないことには勝負にもならない。そして、その行動自体も他の人とは違う動機や理由が必要だ。言うまでもないことだけど、今ある知識や常識、過去の延長線上で勝負するってことは、AIと真正面から戦うってことだ。
僕自身についていえば、実のところ、音楽を作る人や彫刻家さんのような想像力は、持ち合わせていない。それは、自覚している。ただ、社会と関わることを心がけて、常に面白そうなものを探していれば、社会の方が題材を用意してくれるんだ。好奇心と行動力、それに、ちょっとした勇気さえあれば、オリジナリティーも手に入るし、ドキドキにも巡り会える。
僕の場合の問題とは
僕は、オリジナリティーを追求しすぎた結果、誰もいない空気の薄いところまで登って来てしまったので、ちょっと高度を下げて、人のいるところに行こうかと思っている。残念なことだけど、30年間、進歩することを拒否し続けてきたこの国では、前例のない新しいことをやっても、評価の対象にはならないんだよね。今後も、小手先の技術をオリジナリティーだと評価する傾向が続くなら、自分のことよりも、この国の将来が心配だ。また、偶然ではあるものの、社会と関わることをコンセプトにしてきたので、AIへの対応という点では、おそらく大丈夫だと思う。まあ、これに関しても、現時点での予想なので、どうなるかは、わからないけどね。
おわりに
写真が、趣味だったら、どんなに楽だろう。こんなことを考えずに済むし、人生を賭ける必要もない。でも、趣味だったら、僕は写真を撮ることさえしないだろう。やるなら徹底的にやらないと面白くないから。
以上、写真家西澤丞の悪戦苦闘でした!