処理水放出に関する、欠けた視点。

福島第一原子力発電所で始まった処理水放出に関する意見は、テレビでも、ネットでも、大量に溢れているので、否応なく目に入ってくる。そんな意見を何気なく眺めていたら、妙な違和感を感じたので、それについて書いてみようと思う。

僕が違和感を感じたのは、全ての人が被害者の視点でしか発言していないことだ。

確かに福島第一原子力発電所の事故が起きてしまった原因は、津波が来る可能性を指摘する意見があったにも関わらず、対策をしなかったことだと思う。たとえ津波の起きる可能性が400年に一度であろうと、原子力発電所が40年以上稼働することを考えれば、かなりの高確率だ。しかも事故が起きてしまえば、国の存亡に関わるような取り返しのつかない惨事になることは容易に想像できたはずだ。だから、当時の経営者たちに対して言いたいことは、僕にもある。

しかし、それとは別に、こんな疑問も浮かんでしまう。事故が起きた時に、選挙権があり、電気を使っていた人は、100%被害者なのか?

原子力発電所の安全基準を定めていたのは、国だ。電気を作るために核分裂反応を利用することは国策だったからだ。そして、国策を決めていたのは政治家であり、政治家を選んでいたのは、僕たち自身だ。当然のことながら、事故当時、20歳未満だった人は、完全に被害者だ。間違いない。しかし、それより年上だった人はどうなんだろう。全く責任がないと言い切れるだろうか。

選挙に限らず、今日、押した「いいね」のボタン。シェアした意見。スーパーでの買い物。友達との会話。何気ない選択の全ては、未来につながっている。それを意識している人がどのくらいいるのだろう。未来は、与えられるものではないし、誰かが勝手に決めている訳ではない。積極的に関わるかどうかを含め、自分たち自身が決めているのだ。

ここでは、処理水放出の是非について論じるつもりはない。ただ、はっきりしているのは、事故が起きてしまった以上、最善策をもって処理をしなればいけないし、処理するためには、事故に関して全く責任の無い若い人たちにも手伝ってもらわなければいけないということだ。事故当時40代だった僕は、次世代につけを残してしまったことを、大変申し訳なく思う。現役世代の最大の使命は、次世代に、より良い世界を残すことだと思っていたから。

今後も被害者の視点でしか福島第一の事故に関して語れないのであれば、きっと形を変えて何かしらの惨事が起こるだろう。当事者であるにも関わらず被害者の視点でしか物事を捉えていないということは、傍観者を決め込んでいるのと同じだからだ。未来を良くするために必要なのは、今の選択がどういう未来につながるか、当事者として考える想像力だ。

こんなことを考えてしまうのは、伝えることを仕事にしている写真家だからであって、考えすぎなのかもしれない。でも、そんな視点もあるんだなって思ってもらえれば、うれしい。

以上、写真家西澤の悪戦苦闘でした!